今日のモーツアルト
ジングシュピール「後宮からの誘拐」 K.384
Singspiel in 3 Akten "Die Entführung aus dem Serail"
〔編成〕 2 fl, picc, 2 ob, 2 cl, 2 basset-hr, 2 fg, 2 hr, 2 tp, トライアングル, シンバル, 大太鼓, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1781年7月30日〜82年5月19日 ウィーン
1781年8月1日、ウィーンからザルツブルクの父へ
一昨日、シュテファニーの弟のほうが、ぼくに作曲するよう台本を渡してくれました。 彼は他の連中にとってどんなに悪い人間なのか知りませんが、正直のところ、ぼくにとってはとっても素晴らしい友人です。 この台本は上出来です。 主題はトルコ風で、題名は『ベルモンテとコンスタンツェ』別名『後宮からの脱出』です。 序曲、第一幕の合唱、それにフィナーレの合唱は、トルコ風の音楽で書くつもりです。 カヴァリエーリ嬢、タイバー嬢、アーダムベルガー氏、ダウアー氏、そしてヴァルター氏が歌うことになっています。 この台本を作曲するのがとても楽しいので、カヴァリエーリの最初のアリア、アーダムベルガーのアリア、それから第一幕を締める三重唱をもう書き上げてしまいました。
[書簡全集 V] p.105
ロシアの大使が当地へ来られる予定です。 そこでシュテファニーは、もしできたら、この短期間にそのオペラを作曲してほしいとぼくに頼んできたのです。 皇帝とローゼンベルク伯爵がまもなくお戻りになり、そこでまず、何か新しいものが用意されているか? とお聞きになるだろう。 そのとき、シュテファニーは、ウムラウフの(もう長いこと取りかかっている)オペラがまもなく出来上がるだろうし、ぼくも特別にオペラを書いていると申し上げられる、というわけです。
[書簡全集 V] p.106
このことは、アーダムベルガーとフィッシャー以外、まだ誰も知りません。 シュテファニーがぼくらに何も言わないでくれと頼んだからです。 なにせローゼンベルク伯爵はまだ不在だし、少しでも漏れたりしたら、すぐに大変な噂となるでしょうから。 シュテファニーは、ぼくと親友であると思われたくない、つまり、こうしたことはすべてローゼンベルク伯爵が望んだからしているのだと思われたいのです。 それに、実際、伯爵は出かけるとき、ぼくのために台本を探すよう彼に命じましたからね。
1781年8月29日、ウィーンからザルツブルクの父へ
ロシアの大公は、11月にならないと来られないそうで、そこでぼくはもっとゆっくりオペラを書けることになりました。 とてもうれしいです。 このオペラは、万聖節まで上演させないつもりです。 その時が一番よい時期だからです。 その時はみんな田舎から帰ってきますしね。
[書簡全集 V] p.128
上演の延期は結果的にモーツァルトに幸いし、彼は組み立てから真剣に考え直すことができたようであり、また9月19日以降に、父に登場人物を明らかにする気持ちの余裕も生まれたようである。 それに当時のドイツ・オペラの一流歌手が以下のように予定されていて、このような一流の歌手たちにより初演を迎えることになる。
太守ゼーリム Selim (歌なし) = ヤウツ氏、歌わない役者。 ヤウツ(Dominik Joseph Jautz, 1732-1806)はプラハ生まれの凡庸な役者。 上述した8月1日の手紙ではヴァルターの名前が上がっていたが、9月19日以降はその名がないので、ヤウツに変更したのだろう。
•コンスタンツェ Konstanze (S) = ベルモンテの恋人、カヴァリエーリ嬢
•ブロンデ Blondchen (S) = コンスタンツェの侍女、タイバー嬢。 タイバー(Therese Teyber, 1760-1830)は皇王室国民劇場のソプラノ歌手。 父マテウス・タイバーはマリア・テレジア女帝の母エリーザベト・クリスティーネに仕えたヴァイオリン奏者だったという。
•ベルモント Belmonte (T) = アダムベルガー氏
•ペドリロ Pedrillo (T) = ベルモントの召使いで、太守の庭番、ダウアー氏。 ダウアー(Johann Ernst Dauer, 1746-1812)はブルク劇場専属ではあるが、オペラ歌手ではなかったという。
•オスミーン Osmin (Bs) = 太守の別荘の番人、フィッシャー氏。 太鼓腹の男。 第19曲オスミンのアリアに、モーツァルトが使った一番低い音声がある。
そしてこのあと有名な1781年9月26日の手紙が父レオポルトに送られる。 そこではモーツァルトがどのようにしてオペラを作曲しているか、登場人物の性格、物語の進行、聴衆の好み、そして何よりも自分自身の音楽に対する美学と表現方法について克明に父に伝えている。
レオポルトが人並み以上の高い見識を持っていたからこそ、モーツァルトは詳しく説明しなければならなかった。 それはまた、モーツァルトは自分自身が(父が毛嫌いしているように思えるウェーバー家の娘)コンスタンツェを真剣に愛していることをレオポルトが納得してくれるように誘導する意識が働いていたからだろう。 この手紙の全文をここで紹介することはできないので、オスミーンの怒りがますます激しくなっていくアリアの部分で彼が音楽の表現美学を語っているところを取り上げよう。
その怒りがつのるにつれて、アーリアがもう終るかと思うころに、アレグロ・アッサイがまったく別なテンポと、別な調性になるので、正に最高の効果をあげるに違いありません。 じっさい、人間は、こんなに烈しく怒ったら、秩序も節度も目標もすべて踏み越えて、自分自身が分からなくなります。 音楽だって、もう自分が分からなくなるはずです。 でも、激情は、烈しくあろうとなかろうと、けっして嫌悪を催すほどに表現されてはなりませんし、音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、けっして耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽でありつづけなければなりませんので、ぼくはヘ調(アーリアの調)に無縁な調ではなく、親近性のある調、しかし、ごく近いニ短調ではなくて、もう少し遠いイ短調を選びました。
[手紙(下)] p.25
(1781年10月13日)
オペラにあっては詩は絶対に音楽の忠実な娘でなければならないのですが、イタリアのコミック・オペラが、台本から言えば実につまらないのに、いたるところで、あんなに好かれるのはなぜでしょおう。 パリでさえ、そうです。 ぼくはこの目で見たのですが。 それは、オペラでは音楽がまったく支配して、そのためすべてを忘れさせるからです。 それだけ一層オペラは、作品の構想がよく練り上げられ、詞(ことば)が音楽のためにだけ書かれていて、あっちこっちでへたな韻をふもうとして(韻は、神にかけて、たとえどんな価値だろうと舞台上の演出に、寄与するものではなく、むしろ害をもたらすものです)作曲者の着想全体を打(ぶ)ちこわすようないくつかの言葉あるいは詩節を加えるようなことがなければ、かならず喜ばれるはずです。 歌詞は音楽にとって、何よりも欠くことのできないものですが、韻のための韻は、もっとも有害なものです。 そんなに杓子定規に作品に取りかかる先生方は、かならずその音楽もろとも、没落してしまいます。
[手紙(下)] p.30
作品全体が、劇的作曲家としてのモーツァルトの個性の十全の発現なのである。 それは彼におそろしく苦労をなめさせた。 彼のオペラ総譜のうちで『後宮からの逃走』ほど削除、短縮、変更に満ちているものは一つもない。 彼はどんなオペラの作曲にもこれほど長時間を要しなかった。 『後宮からの逃走』はほとんどまる一年間かかったのである。
[アインシュタイン] pp.629-632
彼らが新しさに眼を見張ったのは、その総譜の豊かさであった。 良くできたオーケストレーションや管楽器の思い切った起用、「トルコの楽器」の特別な使い方などが光っていた。 そのため、たとえ台本が二流であったとしても、音楽には人の耳をとらえるものがあり、あまりにも美しく、かつオリジナルにできあがっていたので、これまでにオペラを知っており、耳もある人たちは、モーツァルトがドイツ・オペラの形式について、新しい道を見出したと思ったに違いない。
[ランドン] p.111
モーツァルトにとっても分水嶺となったこのオペラは、同時に音楽の歴史の上でも大きな転換点となり、ランドンは「オペラの構造を革命的に変えてしまったのは、グルックではなくモーツァルトである」と絶賛している。
モーツァルトはドイツ語オペラに新たな水準をもたらしている。 すなわち、それまでのジングシュピールが知らなかったような崇高で深い感情を扱う新たな可能性を与えたのである。 それに加え、彼はオスミーンという人物像のなかに新たな生き生きとした劇的な歌唱の類型、すなわちドイツ流の喜劇的バス(バッソ・ブッフォ)を生み出した。 このタイプは、20世紀におけるリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』のオックス男爵にいたるまで、ドイツのオペラで際だった存在感を示していくこととなるのである。
[全作品事典] p.78
その後繰り返し上演され、翌年(1783年)1月7日には13回目の、2月4日には17回目の公演があった。 プラハでの『フィガロ』についで、彼のオペラの中で生前最もヒットした作品となったのである。 ただし「ドイツ語オペラ」であるがために、彼は依然として本当のオペラ作家の第一人者としての評価には至らないままだった。 そのうえウィーンでは1778年からヨーゼフ2世が推し進めていた「ドイツ国民劇場」の方針転換が決定。
ところがヨーゼフ2世は、この「ドイツ国民劇場」を支えるドイツ語オペラの創作と、それを支える演奏家たちの質の低さに悩むことになる。 そこで皇帝は、ドイツ語オペラを第二の国民劇場たるケルントナートーア劇場へと移し、ブルク劇場がイタリア人たちに開放されるよう政策を変更した。 その結果、1783年の四旬節には、イタリア人歌手の優秀な面々がイタリアからヴィーンへやって来るのである。
[書簡全集 V] pp.317-318
そして1788年2月になって、とうとうケルントナートーア劇場のドイツ語オペラの上演が打ちきられ、閉鎖されることになる。 そのとき最後に上演されるのがモーツァルトのこのジングシュピールとなるのである。 将来そのような事態が待っているとは、まだ誰も知らない。 特にモーツァルトのドイツ語オペラに寄せる思いは人一倍強いものがあった。
ぼくはドイツ語オペラのほうを支持します。 たとえ、ぼくにとって苦労が多くても、ドイツ語オペラのほうがぼくは好きです。 どの国にも独自のオペラがあります。 でも、どうしてわれわれドイツ人にはそれがないのでしょう? ドイツ語は、フランス語や英語と同じくらい歌いやすくないでしょうか? ロシア語より歌いやすいのではありませんか?
同書 p.336
モーツァルトの『後宮からの誘拐』はドイツ各地やプラハなどで繰り返し上演され、またコンスタンツェ役をアロイジアが歌うなどの歌手の交代があったり、さらにワルシャワではポーランド語での上演もあったり、好評をもって広く支持されつつあったが、ウィーンにおいてはオペラ界の流れはイタリア語でなければ食っていけない時代になりつつあった。 モーツァルトはドイツ語オペラに未練を残しながらもイタリア語オペラを作曲するチャンスの方を本気で求めざるを得なくなるのである。 それが宮廷劇場付詩人ダポンテとの出会いとなり、不朽の名作『フィガロの結婚』の誕生となるのである。
モーツァルトにとってもっとも怖い批評家である父レオポルトは『後宮からの誘拐』に対してどう思っていただろうか。 彼はウィーンでの初演の前に息子から送られた楽譜を目にしてはいたが、オペラを実際に観たのは、1784年11月17日のザルツブルク公演のときだった。 レオポルトは娘ナンネルに伝えている。
それによると、直接的な表現で自分の感想は述べていないが、すばらしい感動に包まれた演奏会の様子を率直に伝えるているので、レオポルト自身もその臨場感に酔っていたことがわかる。
かなり見事に舞台にかけられ、絶賛を博し、3曲がアンコールされました。 5時には誰ももう劇場の平土間席には入れず、5時15分には、桟敷席も同様に超満員でした。 家政婦のカテテルは、プラーツ家の子供たちと、平土間席の前の方の席に行かなければなりませんでした。 21日の日曜日にまた上演されますが、そのあとは5週間も休演になるでしょう。 町中がこの曲に大満足しています。 大司教でさえ、たいそう御親切にも、「これはけっして悪くないぞ」とのお言葉でした。 噂では、彼らは191フロリーンの収入があったとのことです。
同書 p.575
※ 森下氏の資料から手紙を中心に引用した。ちなみに翡翠の持っている「モーツ アルトの手紙」上下は、岩波文庫1980年9月16日刊の第1刷で、某図書館の廃棄本を譲り受 けたものである。
<演奏データ>
ローター・ツァグロセク (出演), シュトゥットガルト州立歌劇場合唱団&交響楽団 (出演) | 形式: DVD
出演: ローター・ツァグロセク, シュトゥットガルト州立歌劇場合唱団&交響楽団, キャサリン・ネーグルスタッド, カーテ・ラドナー
形式: Subtitled
リージョンコード: リージョン2 (このDVDは、他の国では再生できない可能性があります。詳細についてはこちらをご覧ください DVDの仕様。)
ディスク枚数: 1
販売元: Naxos
ASIN: B000BDJ86S
EAN: 4945604301794
[歌手]
キャサリン・ネーグルスタッド
カーテ・ラドナー
マティアス・クリンク
ハインツ・ゲーリヒ
ローラント・ブラハト
[俳優]
ヨハネス・テルネ
エマヌエーラ・フォン・フランケンベルク
カローラ・フライヴァルト
アレクサンダー・ボクナー
アレクサンダー・ハイデンライヒ
アンドレアス・グレーツィンガー
シュトゥットガルト州立歌劇場合唱団&交響楽団